Mr. Tokio Hasegawa: His Life and Social Contribution

Mr. Hasegawa along with Bihar CM Hon'ble Nitish Kumar Ji & H.E. Sujan Chinoy Ji
Mr. Masayuki Handa,
Executive Director
Japanese Association of Museums 

世界はいよいよ危機的な局面に入っている。2011 3 11 日の東日本大震災による福 島原子力発電所事故による災害、世界的な気象異変になる大規模災害の多発、さら に、新型コロナ・ウィルスの世界的大流行。こうした問題はいずれも、人間と自然の 関係、大都市圏に人口が集中する暮らし方について、根本的に再考することが不可欠 になっていることを意味している。 
国際交流基金賞の趣旨は、国際交流に貢献した人物や団体を表彰することだという が、こうした危機的な局面において、国際交流のあり方について根本的なところから 考え直し、これからの時代の国際交流の指針となるような人物や団体に光を当てる必 要があるのではないだろうか。私が、長谷川時夫を推薦するのは、そうした視点から 注目すべき人物だからだ。 
長谷川の日印文化交流をめぐる実績はきわめて大きく、日本では限られた範囲でし か知られていないが、インド、特にビハール州では、地域の重要なフォークアートを 守ってくれている恩人として、広く知られ、尊敬を集めている。日印文化交流におけ る彼の多面的な貢献を可能にしたのは、「エコロジカルな暮らしを通じて培われた思想 をベースにした国際交流」という特質があったからだと考えることができる。この特 質は、これからの時代の国際交流のあり方を探る上で、ひとつの重要な指針になると 思われる。 
エコロジカルな暮らしと思想をベースにした国際交流 長谷川は、若くしてタージ・マハル旅行団の中心メンバーとして、世界で公演活動 
を行なったが、70 年代はじめに、日本に戻ってから、新潟県十日町の豪雪地帯でひど く過疎化が進んだ大池集落に定住した。「売れる音楽家」になるべく時代に媚びること を嫌い、自然の豊かな環境の中で暮らしながら、感覚を研ぎ澄まし、生き物たちや月 や太陽、宇宙と共感する思想をつくっていくことをめざした。 そんな時に、大池地区におけるリゾート開発計画が発表され、長谷川はそれに反対し て、対案として廃校になった小学校を利用した「宇宙観に基づく社会教育」を提案 し、それが自治体に受け入れられた。これがやがて、ミティラー美術館へと発展して いく。 ある若者が大池の文化施設で展示してくれないかといって持ってきたミティラー画 が、長谷川の心をひき、ビハール州を訪ねて、描き手の女性たちとの交流が始まっ た。ミティラー美術の担い手の女性たちと長谷川の間に、深い友情と信頼関係がつく られていくことになったが、これは、異なる文化を越える、共通のベースがあったか らだと考えられる。 描き手の女性たちは、貧しい農村の女性たちで、あつい信仰心をもつ人たちで、毎日 の暮らしは、神々への祈りから始まる。ミティラー画は、神々と生き物たち、月や太 陽、星々などの神話的な世界を描いている。 後に、ミティラー美術館は、描き手の女性たちを招いて、長期滞在をしてもらい、長 谷川たちと暮らしを共にしながら、大作を描いてもらうようになる。 

大池の自然と長谷川たちのエコロジカルな暮 らしは、インドの農村の女性たちにとって、 違和感がなく、居心地が良かった。普段の多 忙な仕事から解放されて、ゆっくりと時間を かけて大作を描くことができた。 
長谷川が十日町・大池の自然の中でのエコ ロジカルな暮らしを重ね、生き物たち、月や 太陽、宇宙と対話しながら、つくりあげてき た思想と、ミティラー地方の女性たちの暮ら し方と自然や宇宙への向き合い方の間には、 文化や風土は異なるものの、照応 (correspond)する関係があった。長谷川にと っても、ミティラー地方の女性たちにとっても、深い照応関係にある他者を発見する ことを通じて、自分たちの仕事について考える多元的な視野を得ることができるよう になる。国際交流、異文化コミュニケーションの本来の意義は、こうした点にあると いっていいのではないか。 長谷川は、ミティラー画やワルリー画をコスモロジー・アートと呼んだが、このコス モロジーとは、大池における暮らしを通じて培われた思想でもある。
ミティラー画/月神チ ャンドラマ/ジャムナ ー/デーヴィー 

1988 年に開催されたインド祭では、長谷川は事務 局長補佐となったが、インドから派遣されてくる 舞踊団の公演スケジュールが大主要都市だけなの に疑問をもった。それまでの国際交流事業の慣例 に従うとそういう形になると事務局長にいわれ た。しかし、長谷川は、「国家祭事は全国民のもの であるべき」だと主張し、また、国際交流は国と 国との交流という視点だけでなく、インドの各地 方の人々と、日本の各地方の人々の交流という視 点が重要だと考え、さまざまな工夫を重ねて、北 海道の利尻島から沖縄の与那国島までの地域を含 む列島全体での公演と交流を実現した。これも、 大池でのエコロジカルな暮らしを続けてきた長谷 川ならでは、といえる型破りの発想と行動だっ た。 
日本⻄南端の与那国島でのミティラー⺠俗画 展開催記事(八重山毎日新聞) 
クリシュナとラーダー/ シーター・デーヴィー 
インド祭などの際に、多数のインド伝統芸能の舞踊団などが日本に招かれて、日本 列島の各地で公演を行なったが、そうしたチームが新潟県十日町・大池のミティラー 美術館で自炊の合宿生活をしながら、長谷川がマイクロ・バスを運転して各地に出向 く、という形をとることが多い。こうした芸能団チームのメンバーたちも、大池での 長谷川の家族と暮らしを共にすることによって、長谷川の「エコロジカルな暮らしと 
思想をベースとする国際交流」の精神を、身をもって感じることができるのだと思わ れる。 
長谷川は、長年、完全な菜食主義の暮らしをしている。肉、魚、乳製品を食べな い。蕎麦屋に入っても、かつお出汁のつゆは摂らない。 
菜食になったきっかけは、冬場の大池での暮らしの中での出来事だった。家の戸を 開けて、吹雪の音に聞き入っていた。そんなとき、小さな兎がすぐ目の前を横切ろう とした。その時、兎が彼を少し見た。野生の美しい小さな兎の姿に、心から嬉しくな った。兎の目には、孤独とか生きるのが辛いとかはなく、素朴で美しい目だった。小 さな兎が武器も持たず雪の中に消えていくのを見て、冬の孤独な生活に苦しんでいた 長谷川は、仔兎の方が自分より上だと感じた。それから、兎が彼のグル(師匠)になっ た。師匠を食べるわけにはいかないので、菜食になったのだ。森での生き物たちとの 出会いは、人間に従属する生き物という西洋思想が根底にある現代社会から自然との 共生に向けた思想へと彼を導いた。そして、後に、インドの菜食主義もガンジーの非 暴力の思想も、他の生命を害してはならないという「アヒンサー」の原理に由来する ことを知った。これも、大池での体験から生まれた長谷川の思想とインドの伝統的思 考との照応関係といえる。 
自らの身近な経験に由来する感覚と先端的な思想表現との照応関係を発見すること で、新しい世界が拓けるような飛躍は、長谷川が音楽家をめざしてあらゆることを吸 収しようとしていた高校生時代にもあった。 彼が始めたのは、ニュージャズだった。ベトナム戦争 にかり出された黒人たちの怒りと悲しみは、モダンジ ャズでは表現しきれなくなり、破壊的で自由の極限と もいうべき、パワフルなニュージャズが生まれた。と ころが、ジョン・コルトレーンなど先鋭な表現は、日 本の大人のジャズ・ミュージシアンにとってもなかな か理解しにくいものだった。しかし、高校生の長谷川 には、彼らの奏でる音に込められた怒りや悲しみを感 

じとることができた。14 代目の江戸っ子で下町育ちの 長谷川の幼い頃から周りから聞こえていた浄瑠璃など の音と感情表現が、コルトレーンなどの音楽と照応す ることに、彼は気づいたのだ。こうして、長谷川は、 ニュージャズを経由して、仏教思想につながる諦観、無常、空なるものなど、アジア 文化へと導かれた。テナーサキソフォンを捨てて、お経をニュージャズのように歌う ようになり、仲間たちとタージ・マハル旅行団という東洋的志向をもつ前衛音楽グル ープのヴォーカルとして活躍することになった。 

石のパフォーマンス/⻑谷川時夫 (毎日グラフ 1971 年 8 月) 

タージ・マハル旅行団は、1971 年に「パリ・コミューン 100 祭・ユートピア&ビジョンズ展(ストックホルム国立現代美術 )」に招待されたが、渡航費がなかった。そこで、渡航でき るように支援するイベントが後楽園アイスパレスで開催され、 滝口修造、一柳慧、粟津潔、ツトム山下、山下洋輔、内田裕 也、かまやつひろし、ミッキー・カーチスなどが参加した。そ して、粟津潔がデザインしたチラシには武満徹がメーセージを 寄せた。「私自身のために―タージ・マハル旅行団の存在は、 私を脅かしつづける。私は彼らに混じってもう永遠に書斎へは 帰って来まい、という誘惑に打ち克つ戦いを繰り返しつづけて きた。彼らが起こす行動―音楽―の純粋性はつねに、私に激し い痛覚をもたらしている。」 
以下、長谷川の活動実績を、3 つのテーマに分けて整理する。 
粟津潔がデザインした
    チラシ 
ミティラー美術館におけるインド民俗画の制作とコレクション ミティラー画の世界一のコレクションを持つようになったミティラー美術館が開設さ れたのは、1982 年のことだ。 インド帰りの若者が持ってきたミティラー画の中のガンガー・デーヴィーさんの絵に 惹かれ、大池の施設で展示会を開いた。その際、題名のない絵に「上限の月を喰べる 獅子」と題名をつけポスターにした。(後に、その絵にインスピレーションを得た夢枕 獏氏はその題で数年書き続け、長編の「上限の月を喰べる獅子」を完成させ第 10 回日 SF 大賞を受賞。)長谷川はインドのマトバニに行きガンガー・デーヴィーに会い、 「私たち描き手の女性たちが貧しく困っているので助けて欲しい」とガンガー・デー ヴィさんに言われた。また、インドの近代化とともに、 ミティラー画も日本の浮世絵の様に世界中に散逸してし まってはいけないと、長谷川は考えた。そこで、十日 町・大池の元・小学校校舎を使ってミティラー美術館を 開くことにし、アルバイトで貯めたお金を持ってマトバ ニに出かけ、ミティラー画を購入するというプロセスを
繰り返した。おおよそ 5 年ほどでインドの文化遺産関係 首相顧問ププルジヤカル女史から「世界に比するものがな い質と量のコレクション」と評価されるようになった。 
女史はガンガー・デーヴィーはインドを代表するフォークアーティストと考えてい た。82 年英国でのインド祭の「アディティ展」で女史からの指示で会場で「人の一 生」の大作を描く。この絵は 2 年の歳月がかかり完成し、作品はガンガー・デーヴィ ーの希望でミティラー美術館収蔵となる。86 年開催された米国でのインド祭でもう一  
上弦の月を喰べる獅子/ ガンガー・デーヴィー 

枚が描かれデリーの国立手工
芸博物館に収蔵される。英国
の後、世界各国で開催された
インド祭は日本でも『’88
ンド祭』として開催される。
インド側実行委員長ププル・
ジャヤカル女史、日本側実行
委員長小山五郎、事務局長松
本洋、事務局長補佐に長谷川
がなる。長谷川は「国家催事 は全国民のものであるべき」と考えて、たばこと塩の博物館でのミティラー画展の販 売利益を使い網走市立美術館から沖縄与那国まで全国でミティラー画展を中心のミニ インド祭を開催した。その時に 2 名の描き手を招待、6 ヶ月にわたり、絵画教室、料理 教室、インド舞踊など国際交流を実現。網走、横 浜、与那国などでは公開制作して完成したミティラ ー画を開催地に寄贈、与那国では今でも役場 2 階会 議室に展示されている。この時、NHK 日曜美術館で ミティラー美術館、インド現地取材した 45分の映 像が全国放映、天声人語等、メディアで大きく取り 上げられ、その後の全国でのミティラー絵画展が実 
人の一生/ガンガー・デーヴィー(151.5×281.0cm) 

現されて行く。20 年近くにわたって全国での展覧 会を中心に開催されるインドの絵画を中心とした国 際交流が行われてきた。ミティラー画の描き手だけ でなく、ワルリー画、ゴンド画の代表的描き手が大 池に 6 ヶ月近く長期滞在し、美術館展示に合う大型 作品を描き手たちと長谷川とのコラボレーションに よる作品が作成され、ミティラー美術館に永久保存 されている。マニプール州の女性陶工ニラマニ・デ ーヴィーなどもインド祭に参加している。インドを 代表する 5 大アーティスト("Five Contemporary Folk and Tribal Artists of India”というインド 手工芸博物館での展覧会で紹介されて以来、高い評 価を得ている5名。Jangarh Singh Shyam 氏、Jivya 
 

) 1 人でもある彼女は 3 ヶ月、娘の レビカ・デーヴィーと共にその子ども 1 歳児(
と来日し、2 人で 200 を超える作品を残してい る。彼女の作品で散逸していないのは唯一デリー 
ワルリー画/村の結婚式/Jivya Soma Mashe 


ゴンド画/飛行機/Jangarh Singh Shyam 
Soma Mashe 氏、Sonabai 氏、Neelamani Devi  
Ganga Devi  

テラコッタ(素焼きの焼き物)/ Neelamani Devi 

の国立手工芸博物館にある初期の作品 30 点程で、ミティラー美術館の作品を加えると 大きな展覧会が可能となる。実現出来ればマニプール州にとって重要な出来事となる だろう。
ミティラー画は仏教遺跡が集中するビハール州 
(人口 1 2000 万人)を代表する絵画だ。2 年前 に訪日したニティシュ・クマール州首相は東京の インド大使館での経済セミナーで「ビハールの伝 統的ミティラー絵画はインドから何千マイルも離 れた場所にオアシスを見つけた。ミティーラ美術 館は日本の新潟県の十日町にあり、谷川時夫氏
の頭脳の産物であり、ここは 15,000 枚の絶妙なミ ティラー絵画が収納されている宝の家である。」 と発言している。州首相はミティラー美術館訪問を希望、日本滞在 2 泊の過密スケジ ュールと 2 月初めの豪雪時期のため、大使館の要望に応えてエントランスにミティラ ー画の主要アーティストの貴重な作品を展示した。州首相、大使、参加した誰もが今 まで見たことがない素晴らしい作品に驚きの声を上げていた。これからアジアの時代 を実現していく上でとくに重要なのは、ガンガー・デーヴィーさんを欧米社会でのピ カソのように世界の共有資産にする事だと長谷川は考えている。 マハーラーシュトラ州(人口 1 3000 万人、州都はムンバイ)のフォークアートを代 表するインド先住民のワルリー画の創設者、ジヴヤ・ソーマ・マーシェさんはじめと するワルリー画も、ミティラー美術館に深く関わっている。ワルリーの描き手の中に は来日 20 回、18 回の描き手もいて、来日すると美術館の学芸員並みの役割を担ってい る。最近では日本でもインドの絵本のタラブックスが話題となっているが、主要な絵 はワルリー画やゴンド画の若手が描いている。ゴン ド画はマディヤ・プラデーシュ州(人口 9,000 )のもので、その創設者はジャンガル・シン・シ 
ュヤムさん。ジヴヤさんは 6 ケ月の滞在が 3 回、ジ ャンガルさんは 3 ヶ月の滞在が 2 回、それぞれイン ドでは見る事のできない大作を残している。インド 5 大アーティストと言われる作家は亡くなり次の 世代になっている。その世代は先代には残っていた 祖霊神や悪霊への畏怖、部族神や神々、宇宙神への 信仰が薄くなり、自然、宇宙とのコミュニケーショ ンも退化しつつあり、結果としてデザイン的にスマ ートになっている。その意味からもミティラー美術 館の収蔵品は重要となる。忘れてはならないのは 37 年間毎年屋根の雪掘りによって作品が守られてきた 事、美術館の他、倉庫、倉庫にした民家、ゲストハ 
冬の美術館 
ビハール州首相、インド大使、⻑谷川氏 
屋根の雪下ろし 

ウス等を含み 6 軒の家を使用している。屋根の総面積は美術館の屋根の面積に等し い。 
ナマステ・インディアの継続と発展
二つ目は、インド国外最大規
模のインドフェスティバル、
インドと日本の相互理解を深
めるための文化交流イベント
「ナマステ・インディア」の
継続と発展に貢献してきたこ
とだ。ナマステ・インディアは昨年で 27 回、四半世紀を 越えた。葛西周辺にはインド人が 7 千人住んでるが、日
本全体では 4 万人程度。英国は 100 万人、米国は 430 人、ホワイトハウスには千人のインド人が働いている。 ミティラー美術館に事務局を置く「NPO 法人日印交流を 盛り上げる会」が主幹し日本で開催される「ナマステ・イ ンディア」はインド国外では世界一の規模とインド大使 館からお墨付きを与えられており、2 日間で 20 万人の来 場者で大変な盛り上がりになっている。インドは多民族 国家で地域ごとに文化や言語が異なり、横の連携がとり にくいのが、他の国でのイベントの規模の制約になって
いるのだろう。
日本の僻地にあるミティラー美術館でインドの民俗() アーティストが制作した絵画や等身大の張りぼてや 2m もある巨大な素焼きの馬など、 魅力ある規模の大きな民俗()アートが会場に毎年公開される。私が「たばこと塩の 博物館」の学芸部長の時代、博物館視聴覚ホールをイベントの第二会場として( )日印協会主催の講演会に協力した。イベント終了後の美術品の撤去にも他の学芸 員と少し協力したことがある。一度だけ運転手がいないとかで十日町まで 4 トンパネ ルバントラックで代々木公園を夜中の 12 時に出発したこともあった。長谷川にとって は毎年のことだ。撤去にはインド政府派遣の舞踊団、ボランティア、長谷川の支援者 たちが当たり前の様に協力しあっていた。 この催事は日本商工会議所、日印経済委員会が中心となり 1993 年に始まった。1991 にインド政府が独立後、初めて経済を開放政策に舵を切った。しかし他国に比べ日本 の進出は遅く、その原因の一つであるインド文化に対する関心、理解のなさを解消し ようとナマステ・インディアが始まった。長谷川は協力を要請され、毎年インドから 舞踊、音楽グループを招聘し魅力あるイベントにする一翼を担った。初期の開催地墨 田区役所スペースから無償で提供された築地本願寺での催事には 7000 人近い人が集ま るイベントに成長した。しかし 2004 年に日本経済の停滞を受け、日本側が手を引くこ 
   

とになった。長谷川は「清水寺から飛び降りる」つもりで引き継ぎ、2004 年は事務局 として、2005 年以降は主幹となって、それまでの築地本願寺から代々木公園に会場を 移し、運営体制をつくりなおし、今日に至っている。 東京で評判のこのイベントは長谷川の「エコロジカルな暮らしと思想をベースにした 国際交流」の精神が滲んだものとなっている。メインステージは全国から舞踊・音楽グ ループの出演応募が多くある。祭りであるイベントで参加したい人ができるだけ参加 できるよう、1 チームの時間を短くし、昨年は 2 日間で 850 名が参加している。ステー ジには 12 年前から毎年北海道平取町からアイヌ舞踊団(8 
16 )が参加。会場のセミナーハウスで講演のほかア イヌハウスまである。インドには少数民族、部族が 500 ある多民族国家。日本からも先住民族アイヌが参加すべ きというメッセージだ。どうしてアイヌが毎年出るの? 日本人もインド人も頭を傾けた。ステージや講演会で思 いを述べる長谷川の姿を何度か見た。インドにも 21 名の アイヌ民族が文化使節団として 2013 年にコルカタ、ムン バイ、デリーで公演している。各開催地では来日した舞 踊団や音楽家が参加協力。ムンバイでは奥地に住むイン ド先住民族ワルリーの村を訪れ交流もしている。アイヌ
文化使節団 21 名の規模はアイヌ文化史上初めてと言 う。ナマステ・インディア参加経費はアイヌ文化振興財団から協力を得られない時も アイヌ、事務局双方が負担し合って継続している。大変な心ある出来事だ。近年まで あるいは今でも負(土人などと呼ばれたりする差別)を持つことのあるアイヌ、その アイヌ文化の素晴しさを伝えようとしている。最近では国立歴史民俗博物館もアイヌ ハウスというブースに展示物を提供、アイヌ文化専門の助教授も毎年ボランティアで 協力している。 「たばこと塩の博物館」では来年「ミティラー美術館コレクション展」を 16 年ぶりに 開催するそうだが、私が在職中に、このコレクションを 5 回開催した。92 年「インド 先住民族アート展」ではアイヌ民族の地位向上に国会を通して多大な貢献した参議院 議員の萱野茂氏が講演をされた。萱野氏は会場でワルリー画のジヴヤさんの公開制作 を見て感動された。特に今でも*ワルリー語を話しワルリーの文化が継続している事* に強い関心を持たれた。会場で公開制作された絵を北海道二風谷にある萱野茂アイヌ 資料館へ寄贈するために、長谷川と私は、車で運んだ。 
*__* 明治政府の同和政策によりアイヌ語を話せる人は少なくなっている。 長谷川氏との出会いは 1986 年に「たばこと塩の博物館」で開催した「中国広西少数民 族くらし展」からだ。有名な桂林がある広西チワン族自治区に住む 12 の少数民族の織 布と楽器の展覧会。これは日本文化のルーツの一つと知られる南中国少数民族文化が 世界で初めて公開されるという貴重な文物。広西芸術学院大学が 16 年にわたり調査研 究した成果でもある。現地に研究者が入る許可が下りない時代、4 年越しの粘り強い交 
アイヌ文化使節団インド公演チラシ

渉の末借り出すことに成功したものだ。しかも新潟県
10 ヶ市町村から始まり札幌から京都、鹿児島黎明 館等を巡回した後、最後東京で開催。東京で開催しメ ディアから全国発信し地方展開というパターンに逆行 していた。長谷川は地方に住み、新しい音楽を一緒に する仲間が見つからないと言う。ほとんど音楽をする 人は東京の真似をするだけ、東京はニューヨークや パリを真似しているのでは、日本のオリジナルな文 化は出きない。地方の未来に必要な最も新しい文化 を体験する機会を地方に作らないと、という意気込 みで草の根で実践していく。日本の各地でこの貴重 な展覧会に学者達もボランティアで協力していっ た。会場で公開されたビデオは特に貴重なもので瑤族の中でも最も古い文化を保持し ている白褲瑤(ペークーヤオ)(30,000 )の生活、儀礼が紹介されていた。京都思 文閣美術館の展覧会を訪れた奈良国立文化財研究所所長の故坪井清足氏はビデオが流 れるテレビの前で座り込み微塵も動かなかったそうだ。日本の弥生文化研究を代表す る人物の姿に関係者はそれ程このビデオは貴重なんだと驚いた。 この展覧会が契機となり、 
翌年トヨタ財団の助成で、 現地での日中共同研究が長 谷川代表の下、実現した。 萱野茂氏も参加し大瑤山で は「日中の少数民族の交 流」というとても良い国際 交流が実現した。私も参加 させて貰ったが日本各地で 展覧会に協力した学者、専 門家が集い、未公開地域を 調査、広西芸術学院の専門 家と民族事務委員会の協力 で大変な成果となった。そ の後、参加した鈴木正崇氏 は国立民族学博物館の藤井 知昭副館長、百田弥栄子氏 と白褲瑤族の村を訪れてい る。このプロジェクトの参 加者には次の研究の大きな 糧となっていることがわか 
   

る。 その後、長谷川は南太平洋諸国文化も日本に紹介している。パプアニューギニア、ア ボリジニー、マオリ族など、西洋文化に影響されてない独自な民族文化を保持するグ ループを大都市から遠く離れた地域に住む人々を選び、招聘し全国展開している。 2000 年にパプアニューギニアの民族のかたち「くらしの中の神々」をたばこと塩の博 物館で開催した。十日町市の隣の旧塩沢町にある旧今泉博物館(現今泉資料館)収蔵の 世界一のセピック川を中心とする 5000 点近いコレクションと故今泉氏が鶴ヶ島市に寄 贈した 1500 (現在は国立民族学博物館他 2 施設に分散寄贈している)から展示物を 選ぶというものだった。この類稀なコレクションを集めた方の(今泉氏は購入したスポ ンサーで生まれ故郷に役に立ちたいと博物館建設経費他を塩沢町に寄贈している)希望 に長谷川が共感して協力した展覧会。訪れた水木しげる氏に会場で公開制作していた パプアニューギニアの部族民の作品を数点寄贈している。今泉資料館は、現在、南魚 沼市となった塩沢地区の道の駅の隅に存続している。2000 年、評判を呼び始めた十日 町市での「大地の芸術祭」の協賛イベントとして本町 2 丁目に今泉博物館のコレクシ ョンを使用したストリートミュージアムを開催。床屋さんやラーメン屋、蕎麦屋など にも展示するという、ユニークな挑戦もしている。 ピカソやゴッホやゴーギャンなど西洋のアーティストはアフリカ、アジア太平洋、浮 世絵など民族芸術に多大な影響を受けた。それなのに、日本人は西洋絵画や現代アー トを称賛するのに、どうして、今泉のパプア・ニューギニアやミティラー美術館のコ レクションに関心がないのだろうか?この疑問を長谷川はあらゆる関係者に 37 年も問 い続けている。 さてナマステ・インディアに話を戻すと、長谷川は代々木公園に会場を移すとき、イ ンドと言えば哲学、楽しいイベントの中にも哲学に触れる場を作れないかと考えた。 88‘インド祭の時にお世話になった故中村元氏が始めた東方学院が参加してくれる事 になった。ボランティアで継続している
この学院のテナント料は無償にした。イ
ベントの初日には毎年、故奈良康明氏、
前田専學氏という日本の仏教哲学、東洋
宗教哲学を代表する両氏から丁寧に感謝
の言葉を頂いていた。イベントの発展と
ともに大型テントで東方学院主体の連続
講演会が可能となる東方学院セミナーハ
ウスも実現している。
2011
年東日本大震災後インド国家災害対応部隊(NDRF)46 名が宮城県女川町に入っ た。その 3 年後に、インド大使から現地支援としてインド政府派遣舞踊団(815 ) 演を女川町で開催したいと依頼され、毎年実現している。2016 年には駅や商業施設が 稼働するようになり、人を呼び込む目的も兼ねナマステ・インディア女川を、インド 大使館や町役所の協力のもとに、5 月連休中に開催した。その後、これが継続し今年で 

5 回目となる。代々木公園でのナマステ・インディアでも女川町のブースを設け、当時 インドレスキュー隊のボランティア通訳をした若者が中心にインド大使館、インド関 係者との交流の写真パネルや町の物産、観光紹介などを行なっている。ナマステ・イ ンディア会場を訪れた日本の仏教僧が驚かれた。NPO エリアの テントを覗くと菩提僊那像があったからだ。テント内のパネル 

には所せましと 2012 年の日印国交樹立 60 周年記念として東大 寺中門や大仏殿で奉納されたインド政府派遣の舞踊や、古典声 楽ドゥルパッドの写真パネルが展示されている。菩提僊那は、 日印交流の始まりと言われており、奈良時代に日本に初めて来 た最初のインド人でありバラモン僧と知られ、病弱な聖武上皇 に請われて大仏の開眼導師になりその後も国際交流センターで あった大安寺で仏教、サンスクリットを日本僧に教えた。周年 事業で終えるのではなく、日印両国の教科書に菩提僊那の偉業 が載るまで続けようと長谷川が継続してきた。今年で 9 年目に なる。2017 年インド大 
使館での菩提僊那継承
事業プレイベントには
高円宮妃殿下も御成り
になり、ステージで
「宮様のお友達の長谷
川さんのミティラー美
術館」を訪ねた事をお話しされている。菩提僊那像は ワドワインド大使、ナーランダ大学副学長、日本の各 界の関係者が協力してデリーの仏像制作会社が 3D で制
作した 1m 座像。菩提僊那継承事業に毎年インド政府か ら派遣される舞踊・音楽グループの全国公演で公開さ れている。それ以外はミティラー美術館で公開されて
いる。
インドでもよく知られるこのナマステ・インディは各 地の在日インド人、総領事館からアドバイスを求めら れてきた。そして福岡市、神戸市、京都市、横浜市、江戸川区、川崎市と在日インド 人を中心に自治体や、商店街、ボランティアを巻き込みながら各地でインドフェステ ィバルが開催されてきた。またインドでも似たミニイベントが開催される様になっ た。 
インドの民族舞踊・古典舞踊・音楽の公演
3
番目はその本物の、生きたインドの民族舞踊や古典舞踊・音楽の紹介の全国公演や、 保育園から大学までのワークショップや公演、老人施設や、身体障害者施設への訪問 

古典声楽ドゥルパッド奉納
  
インド古典舞踊劇 カタカリ 奉納 
ミティラー美術館で公開されている 菩提僊那像奉納 

などだ。
2007
年~2008 年の日印交流年では積み重ねた日本全国のネッ トワークや経験を生かしインド政府派遣舞踊・音楽、25 のグ ループを北は利尻から南西は沖縄与那国まで 162 公演 3 展覧 会を長谷川は実現している。インド大使館が出した交流年の 記念誌にはミティラー美術館を訪れたシン大使夫妻の写真や 長谷川の犬まで載せてある。日印交流交流年賞をわざわざ日 印協会会長森喜朗氏から長谷川に手渡す演出を大使はしてい
る。中古の 4 輪駆動のマイクロバスにはインド政府観光局に より派手なインドの写真がプリントされ、大使が運転する写 真まで載せてある。このバスで長谷川は全国を回った。各離 島のほか、噴火した三宅島。中越大震災の川口町、小千谷 市、山古志村の仮設住宅、アイヌ民族が住む北海道二風谷な ど。各地の住民は、本物のインド文化に触れることができた。こうした交流のミニ版 を毎年継続している。
昨年のナマステ・インディアにはマニプー
ル州政府が 24 名の文化使節団を派遣した。
インドの州政府が日本の友好都市に 10 名以 内の舞踊団を派遣する事も稀なのに異例の 事だった。文化大臣夫妻、以下局長家族、
課長家族まで参加し、大臣以外は 16 日間に わたって新潟、刈谷市、京都、敦賀、東大
阪市など全国 13 公演をしている。各会場で はニラマニデヴィさんの弟子の女性陶工が ロクロを使用しない、古来の手法で公開制 作し、人々を驚かせた。参加者は、ロクロ以前の日本の古代の陶芸に想いを馳せた。 東京公演のためには、群馬県千代田町の寺に宿泊。大臣以下、自炊で寺の協力で無料 宿泊。移動は長谷川が 2 時間以上毎日マイクロを運転。観光に金閣寺、東大寺にも訪 れている。大使公邸に招待されたり、京都、大阪では総領事館が協力した。 その後、州政府は、11 月末のインパールでの北東インド最大規模のサンガイフェステ バルに日本からの文化使節団が参加するよう、NPO 日印交流を盛り上げる会に要請し た。それに応えて 21 名のグループで参加している。小中高生が中心の和太鼓がその技 術の高さで会場を沸かせたが、最終日のメイン会場でのトリでスートンミュージック が披露され、絶妙な拍手が起きた。4 時間ほど長谷川の指示のもと練習しただけの全て 即興でのぶっつけ本番だった。日本に来日した州の舞踊学院の教師と生徒達、以前来 日した事のあるタンタと言う武術家グループ、日本の文化使節団とのコラボレーショ ンである。
日印交流年記念誌に掲載され た全国公演会場をマークした ポスター 
ナマステ・インディア 2019 メインステージ マニプール州文化大臣とともに 
サンガイフェスティバルでの ストーンミュージック 
タンタの武術衣装を着た 5 人の子供は大きな野 外ステージの前方に横並びで並び、前に置かれ た大きな石の前に座して脇の石を持ち上げてい っせいに目の前の石に落す。長谷川氏のお経、 都々逸、民謡が混ざったような不思議な即興の 歌に合わせ、マニプリ独特の古典女性声楽のボ ーカルが唄う。横笛、一弦琴のペーナ、両面太 鼓がそのメロディーに合わせ、和太鼓、シンセ サイザーが加わる。この新しい、聞いた事もな い音楽に合わせ左右の舞台袖から 5 名ずつ衣装 
を着たダンサーが参加し、マニプリの伝統と新しい様式が上手く振り付けられてい た。ステージ右では、会津の和紙作家が、リズムに合わせて紙を漉いた。和紙にはイ ンパール作戦激戦地、レッドヒルの土が混ぜられる。公演が終わるとステージで感激 した各大臣や高官から花束やなどが手渡された。 
使節団には 2 名の僧侶も参加、現地の人々が建立したロトパチン村の慰霊碑に奉納。 昨年オープンした「インパール平和資料館」等にも現地政府の協力で訪問。資料館に は今回製作された和紙も寄贈した。マニプール州政府は今年も継続出来るよう、20 の相互交流の招待状がすでに昨年、滞在中の長谷川に手渡している。 長谷川は26年前 1995年と96年にマニプリ舞踊団20名を受け入れ、3ヶ月間に渡り ミティラー美術館を基地にして全国公演をしている。これは、インパールへ戦争に行 った元兵士の方々が、戦後現地の人々が戦死した日本人の遺骨を長年にわたり拾い集 め慰霊碑を建ててくれたことにお返しがしたいと言ったのが始まりだった。日本の 人々にインパールのことを知ってもらいたい、という要望に応えるものだった。日本 政府が慰霊碑を建立したのは 1994 年になってからだった。その後も長谷川はインド政 府派遣の 5 のグループの全国ツアーを成功させている。ニラマニ・デーヴィーのミテ ィラー美術館のコレクションを含めると州政府の文化担当官が言うように長谷川はマ ニプリ文化の日本への紹介のフロンティアである。 

東京国立博物館での特別展「コルカタ・インド博物館所蔵 インドの仏 仏教美術の源流」2015317()~5 17 ()開会式でテープカットをした後、インド大使 のワドワ女史は長谷川のところに近寄り耳許で「貴方は影 のヒーロー」と囁いた。この展覧会は準備期間が 8 ヶ月と 言う、東京国立博物館始まって以来の短期間で開催された が、これは革命的出来事だった。開催が実現したのは、日 本博物館協会主催の全国博物館館長会議の後の交流会で長 谷川が銭谷日本学物館協会会長にインドからきたばかりの 資料を見せた事から始まる。東博の主要メンバーが素晴ら 

『インドの仏』展チラシ 

しい文物だと言うことになったが、長谷川がインド政府は 3 ヶ月後に開催してほしい と希望していると言うと全員がびっくりした。上野までの経費、保険は一切出すと言 っていると話すと、とにかくその様な短い期間は無理だが問題は会場が空いているか だとなり、翌日調べてみることになった。翌日大使館の文化担当と長谷川が東博を訪 れると 8 ヶ月後に表慶館は可能という事になった。今度は大使館が本国と日程調整、 開催が可能となる。後はスポンサー探しで日経が主催協力する事になった。 
7 万人以上のチケットが売れないと赤字になる事がわかり、長谷川はまず外務省に広報 に協力すべきものと熱意を持って話していく。しかしチラ シに仏教と宗教の名が出ていて協力できない事を知る。主 催の日経も同様の理由で仏教会に働きかけられない。長谷 川が動けば動くほど日本社会の問題にぶつかった。日本の 硬直した社会だ。入場者が 7 万人をこえるべく長谷川氏は 仏教会や新宗教団体など声をかけたり、大使館からポスタ ーチラシを自治体、大学、インドレストランまで配布して くれるよう動いた。在日インド人へのインフォメーショ ン、メディア対策など、ナマステ・インディアと同様の宣 伝活動を開催終了まで努力していた。長谷川はなぜ自分で 図録を購入してまで京都、奈良の仏教会、新仏教会にまで送るのか? 理由は日本人 の多くは仏教徒、無信仰といっても仏像が好きだ。その本家本物が、インドの博物館 の学芸員が選んだものがくる。目玉の仏像を中心にして開催する経済を優先する日本 で開催される主流の展覧会とは異なる。この様な質の高い展覧会は稀有な例で、大勢 の国民が見れた方がいい。また、赤字になれば、急な話しだから、インドだからとな るだろう、次はないかもしれない。これは今後の日印交流の為にも成功させなければ いけない、と考えて動いていく。これではお金がいくらあっても足りない、江戸文化 の「宵越しの銭を持たない」を地でいっているようなところがある。 
結果、10 万人近い入場者になり、この展覧会は成功理に終了した。 この話には前段がある。長谷川が資料を見せた 1 年前の館長会議の交流会が終了した 後、日博の打ち合わせを兼ねた数人の食事に同席した長谷川氏は、真向かいに座る銭 谷会長に日印交流の難しい問題を語り始めた。しかも会長に笑いながら、「という事 で、日本で最も駄目な文化施設は貴方の東京国立博物館です」と指を会長に向けて言 うものだから皆んなが笑った。その話の内容をまとめるとこの様になる。「山の中にあ る廃校の小学校を使用した雨漏りのする美術館が日印文化交流で日本で一番活躍して いる。どうしてだろうか?インド政府が毎年 23 の舞踊・音楽のグループを日本に派 遣する。グループの詳細が決まるのは 12 ヶ月前でこれでは日本中の国立、県、市、 町、村の文化会館、文化施設、公民館、文化団体が対応が出来ない。20 年以上前から 歴任インド大使が、数ヶ月前、1 年前に舞踊団が確定しないと日本ではオーガナイズが 出来ない、前年に予算が決まる日本の文化施設は急な話に対応が不可能である事を、 派遣元のインド政府外務省管轄の ICCR に強く要望してきたがダメだった。しかし日本 
以外のアジアの国だと可能だ。力のある所が動けば可能となる。欧米はと言うと、良 い物であれば、他を動かして対応できる。学芸員や館長の権限が強いからだ。インド 側は国際線の移動経費、謝礼を払う。国内移動や食事、宿泊、公演経費を日本側が持 つだけなので施設を持つ主催者が他の施設と連携すれば可能となる。今日では日本の 貿易総額がアジアで半分を超えてきている、であれば日本の文化施設はアジアに向け た対応が必要になっている。毎年来日するなら、ファジィ予算という様なゆるい予算 を前年に用意して対応すれば出来るのでないか。アジアの文化を紹介しないで費用対 効果、西洋もの、通年の催事を継続していたら日本は取り残されていく。展覧会等も 同じ事でアジアで日本だけが急な話しに対応出来ないのは問題だ。インド政府が東博 に企画を持っていくと、準備に 5 年の歳月が必要と断ってきた。欧米では学芸員の権 限が強いので国民にとって必要だと思えば、決まっているものも、頭を下げて動かし 実現出来る。日本の文化行政は頭が硬く、融通が余りにきかない。その最も駄目なの は貴方の東博です。」と長谷川氏の文化催事の現場での長い経験と実績から語る言葉は 重い。 日印の文化交流の要としての長谷川には色々とアドバイスや協力を求められる事が増 えてきた。 
2017 年日印友好交流年記念として歌
舞伎座で 10 月に 1 ヵ月にわたり公演
された新作歌舞伎 極付印度伝「マハ
ーバーラタ戦記」に 2017 ナマステ・
インディアは広告塔として大きく協
力した。ナマステの時期が 9 月の最終
土日とタイミングがよく、2 日で 20
万人が集う会場では歌舞伎ハウスが
会場中央に設置された。ステージで の歌舞伎役者と演歌歌手チャダ、インド大使が参加 する開会式や航空券が当たるステージでの抽選会で 松竹関係者が公演をアピールした。ホームページに 大きく記載。当日配る当日チラシ、事前のチラシの
1
面広告、ポスターに写真入れ在日インド人関係 者、インド関係団体、出演、出店企業、インドレス トラン、大学、専門学校などに配布、掲示して貰っ
た。 最終公演に江戸川インド人会会長夫妻が観劇しようとしたが満員御礼で入れなかっ た。松竹は成功だったと感謝の気持ちを長谷川に伝えた。 長谷川は、昨年インドで民間としては最高栄誉賞にあたるパドマ・ブーシャン賞にノ ミネートされた。日本人としていままで 5 人受賞している。存命されている方は、鈴 木修氏、森喜朗氏。推薦された団体はネルー大学の国際的な学者の方々で、今まで長
ナマステ・インディア 2017 当日 パンフレット 
歌舞伎『マハーバーラタ戦記』 




谷川が知らない人だった。
最後に、88 インド祭の事務局長でもあった松本洋氏は長谷川氏が国際交流基金賞を受 賞されることを心より願っていることをお伝えいたします。 
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