杉山龍丸(すぎやま たつまる): Life of Tatsumaru Sugiyama

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 Center for Culture & Global Studies

Life of Tatsumaru Sugiyama 

(26.05.1919----20.09.1987)


              杉山龍丸(すぎやま たつまる)

                   1919(大正8).5.261987(昭和62).9.20


 

杉山泰道(夢野久作)の長男として生まれる。祖父は明治~昭和期に政界の黒幕として活躍した

其日庵こと杉山茂丸。祖父や父と異なった生き方を望み陸軍士官学校を志望するが、入学を控え

た昭和11å¹´3月11日父泰道が脳溢血で急死する。陸軍士官学校入校後、祖父、父の願いも空しく、

軍部の暴走により日本は中国との戦争状態に陥り、日米開戦へと突き進んだ。昭和17å¹´、戦争

絶対反対を近衛文麿、頭山満、広田弘毅等に説くが、すでに引き返すことの出来ない段階に突入

したことを悟り、精一杯やって一人でも多く生き残るすべを探ろうと決意する。

昭和18å¹´、陸軍航空技術学校を出た後、陸軍飛行第31戦隊付として満州、中国を転戦。敗色も

濃厚となった1944å¹´、兵員輸送船『扶桑丸』の副輸送司令官としてフィリピンへ向かうが、船

は米軍の攻撃を受け沈没。11時間の漂流後救助されたものの、部下の1/3と整備用具のすべて

を失って、マニラに辿り着いた。陸軍飛行第31整備隊隊長、比島隼戦闘機成整備隊長(特攻基地

整備隊長)などを歴任したのち、基地に戦闘機が無くなったため内地勤務を命じられ、ボルネオ

へと移動。タリオで敵機の機関銃掃射弾を受け、すぐに死ぬと告げられるが、幸いにも命をとり

とめ、絶望的な飢餓と困窮の中で少佐として終戦を迎え、退役。

 

 5年に及ぶ療養後上京し、米軍戦車の修理、セールスマンなどを経て技術者として独立した頃、

 日本山妙法寺の藤井日達師の弟子の『佐藤行通』氏と再会。佐藤氏にインド人留学生を紹介

されたことがきっかけとなり、ガンジー塾の人たちと関わっていくことになる。

 1955å¹´、インドのネール首相より協力を求められ、アジアの国民生活と生産技術を指導する為、

国際文化福祉協会を興し、日本国内においてガンジー翁の弟子達の指導を行う。1962年ガンジー

塾の招きによりインドを訪れ、その困窮の凄まじさと、国を良くしようと願う人々の熱意に打た

れ、貧困と飢餓の克服に尽力しようと誓う。インドでは下層民の仕事とされる実業(農業、製造、

商取引等)を充実させることが国を富ませると考え、それまで省みられていなかった、下層農民

の生活の充実を目的とした荒野の緑地化を進言し、現地での準備実験と実地指導を始めた。

 

地形を調査して伏流している地下水脈を遮るように保水目的の砂漠植物を植え、植物の根により

土壌を安定させる。その後、砂漠での成長が早く、現金収入とすることが可能であるユーカリ

などの有用植物を植えて、植林帯を作る。この植林帯のもつ保水力により、周辺地域での恒久的

な農業を実現した。また、1961年にパンジャップ州の国際道路にユーカリの植林を進言。1964å¹´

ユーカリの苗木を作ることに成功し、この年から1972年の間、国際道路の40kmにわたる区間の

両側にユーカリを植林。1972年には成長したこの街路樹帯の成長により、その周囲2kmの範囲

において蓬莱米の栽培に成功し三毛作の道を開いた。また、1974年インドの国民生活、産業技術

の基礎指導事項が完成し、ニューデリーで日印地域工芸展を開催し、その成果を披露した。

 

1975å¹´、佐藤栄作元首相の要請により、砂漠緑地化に関するこれまでの成果を論文にまとめ世界

に向けて発表。日本政府による資金援助の可能性を得るが、話が進展する前に佐藤栄作が死去し

援助計画は頓挫。1977年インド農業省の要請でヒマラヤ南陵のシュワリツク丘陵土砂崩壊の問題

を解決する。幾多の失敗と困難を乗り越え1982年に20年来行ってきたパンジャップ地方の緑地化

の達成を確認。1984年オーストラリアの第2回国際砂漠会議に出席し、インドで成功を確認した

砂漠緑化の植林による方法の基本科学を発表。47カ国の人々と交流し帰国。

 父から受け継いだ財産である杉山農園を手放し、インドをベースにして活動を続けたため、家族

と過ごす時間を犠牲にするなど、すべてをなげうち、実際に成果を出してきたにもかかわらず

ついに日印の政府機関による支援を受けることは出来ず、1987å¹´68歳で亡くなった。

 

また、夢野久作の長子として、鶴見俊介や西原和海らの久作再評価の動きを、資料を提供するなど

して積極的に助けた。その成果は1966年の夢野久作全集の刊行として結集し、夢野久作はそれまで

のマニアにのみ知られている変わった探偵小説家から、日本文学史上に特異な位置を閉める巨星と

認識されるにいたった。

 

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